2012/05/12

教育と競争(不平等)を考える

初めに、宗メールを引用します。

・・・・・・前半省略・・・・・・・

「日本の教育はダメではなく、私の教育方針に合わないからです」と答えるの
が精いっぱいでした。その後のやり取りはここで公開する訳にもいかないので
しませんが、要は日本の教育は強い人間を育てないと私が思った次第です。

優しさ、思いやり、平等、公正・・・一般論でいえば、日本の学校は中国の学
校よりはるかに良いと思います。しかし、日本の学校には競争およびこれに伴
う挫折の体験が少なく、当然その挫折から立ち直るための体験や教育もできません。

私の子供が中国の学校を嫌う理由の一つは先生の乱暴さです。子供の前で間違
った宿題をバリバリ破ったり、勉強できる子とできない子への態度が全然違っ
たりします。最初に日本の学校を経験した息子にとってどれもショッキングな
話で、おまけに給食が不味いです。

一年に一度の運動会も競争に意欲満々の上、何らかの項目に勝てそうな生徒を
選んで入場式や試合に参加させますが、意欲がなく弱い子は席に座って応援す
ることになります。どうしても嫌だったら学校に来なくてもいいと言われる始
末です。

読者の皆さんがどう思うかは想像できませんが、私にとって全然苦痛のことで
はありません。昔、私も同様な環境下で育ったので運動会というのはそんなも
んだと思ったからです。参加したい人、強い人が競争し合ってクラスや学級に
メダルや優勝旗を勝ち取ります。意欲がない人、弱い人が応援してもいいです
し、勝手に遊んでも先生に言われないので炎天下の席で我慢するよりましだと
思うのです。

・・・・・・・途中省略・・・・・・・

子供がついていけない時や競争に負けた時、私はチャンスだと思っています。
頑張って挽回するのもいいですし、自信を失い苦しむのもいいです。だって大
人の世界はそればかりではありませんか。先生が乱暴だといっても私は気にし
ません。なぜならば社会に出ると上司と顧客に乱暴な人が多いからです。

競争に勝つのは競争に参加する目的ではありません。競争に慣れること、負け
てもやっていけることこそ、競争参加の目的です。

オンリーワンを通してもいいですし、個性的で好きなことをやってもいいです。
しかし、どんなことをやっても結果として競争に参加しなければならないこと
は多いのです。負けるのが嫌で競争アレルギーを持つ人はオンリーワンも個性
も守り通すことができません。

「世界に一つだけの花」。SMAPのこの歌の中国語バージョンもあります。その
歌詞は微妙に違います。日本語の歌詞には「負けてもいい、俺がオンリーワン
だから」に聞こえますが、中国語歌詞は「負けてもいい、立ち直って取り戻す
から」に聞こえます。

・・・・・引用終わり

 日本の教育は、世界の中で異質な存在です。

 世界の教育行政関係者にとっては、良いことはすべての子どもに与えるという平等システムから社会に準じた不平等システムへの移行をどの年齢に設定するのかが問題となっていますが、北米や北欧の「平等」が機会均等と同義であるのに対して、日本の「平等」のみが結果平等を目指しています。

 また、西欧のいくつかの国では、子どもが生まれた直後に不平等システムに組み込まれていたり、幼稚園の時点から所定の能力がなければ留年が当たり前となっていて、日本でいうところの小学校1年生において、学級内で5歳から8歳までの年齢のばらつきがあります。

 一部には、フィンランドの教育が競争がないからと、高く評価されている方もありますが、テストも通知表もあります。現実は、日本のようにわからないままでも進級することは許されず、義務教育段階で留年があり、また、中学の内申点で高校入試が決まるため、高校浪人も多くあります。

 それぞれ到達点の異なるいろいろな子どもがいることを前提に、それぞれが不利な扱いを受けないことが「格差のない平等な教育」であるとするフィンランドと、全ての子どもの教育の外形的な最終結果を同一にすることを「格差のない平等な教育」であるとする日本では、競争や平等に対する考え方が全く違うことが理解されていません。